「ゴールデンカムイ」最終回で尾形百之助ロスがぶり返す(祝福とは、罪悪感とは)

連載漫画「ゴールデンカムイ」の最終回(4月28日)を読んだ直後は、100%の大団円とは思えなかったけど、それなりに納得していたつもりでした。


ゴールデンカムイ 17 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

あ、漫画未読の方は盛大にネタバレ含むので読まないでそっと閉じてやってください。

最終回から半日、1日と経ってから尾形ロスがきっついボディブローのように重く響いてきているんですわぁ…

初めは鯉登少尉が一番好きだったし今でももちろん好きなんだけど…尾形には抗えない魅力がね…色気すごいよね…

それと、彼が抱いていたテーマに心を持っていかれた人は多いと思うのですが、私もそのひとりです。

ちなみに、アニメの声が完全に尾形すぎる。。(アニメは私はAmazonプライムに加入しているのでそちらで見てます)

アニメ第4期が、2022年10月より放送されるということで歓喜ではありますが~

尾形ロスに少しづつ慣れてうっすら癒えてきたころに、動く・しゃべる尾形を見ちゃうわけで…楽しみでしょうがない一方、またこれを味わうのかと思うと、なんかもう複雑…

さて、尾形がなぜあのような最期を迎えなくてはならなかったのかについて、ずっと考えていたことをアウトプットすることで、尾形を偲びたいと思う。(すごく長くなった)

尾形の言動は自罰的な自傷行為だったのでは

自分は祝福された子どもではないのでは?の疑問には、そう思うに至るだけの根拠がいくつか存在している。

まず、ひとつめに妾の子どもであること。

ふたつめに父が薩摩藩出身、母が水戸藩の地域出身という因縁のある土地出身であること。(祖父母にも言われている気がする)

みっつめに、母は精神を病み、父にずっと無視され続けた母子という状況が「祝福」とほど遠い。

後の尾形が言うように父親に少しでも愛情があれば、せめて甲斐性があれば…

尾形のすべての不幸の発端は、おっ母を殺めてしまったことにある。同時に、彼に寄り添う父性母性の不在。

あの日の過ちから、私には尾形は無意識に心の自傷行為を繰り返していたように思える。

愛しているもの、大切なものほど壊してしまう…これは自分に自分で罰を与えている行為だ。

自分を裁いている行為。

自分は幸せになってはいけないと無意識に思っているゆえの行為。

『おっ母の葬式ほどのことがあれば、お父っつぁまは会いに来るのでは?』

これは切ない考えだ。だって、葬式レベルのことがないと父親はここに来ないことを知っているんだもん…

大人の尾形を見るに、周囲をよく観察する賢い子どもだったろう。だけれど、情緒がうまく育っていなかったのだと思う。

親戚付き合いもなさそうだ。

あの時代なのでさすがに法事には呼ばれているだろうけど、いろいろ言われたりして(水戸なのに薩摩の妾とかさ…)疎遠になってただろうな。

なんというかな…

銃で飛んでいる鳥を打ち落とす死に、アシリパさんが受けたような生命の循環や実感の伴なう感謝の教育は受けられなかったでしょう、あの坊やは。

アシリパさんにはカムイ、ウェンカムイなど、倫理を育てる信仰心もあった。

尾形家にはそのような血の通った信仰心があったのかな。おばあちゃんおじいちゃんはどんなお話しをしてくれたのかな。

人生の迷子になった時に指針になるような話をしてくれていただろうか…

尾形は後に勇作殿にこう言う。

『罪悪感?殺した相手に対する罪悪感ですか?

そんなもの…みんなありませんよ

そう振舞っているだけでは?

みんな俺と同じはずだ』

罪悪感を絶対に認めるわけにはいかない尾形のこのセリフ。まるで、慎重に自分に言い含めるように…

全力で罪悪感が無いと思い込むことが…

おっ母を殺めてしまった罪悪感をマヒさせて、心の奥底に隠し続けて、自分の中には罪悪感が存在していない振りをする尾形。

「罪悪感を微塵も感じない俺」でいなければ立っていられなかったからだ。

(罪悪感を認めて受け入れてしまったら、子ども尾形の精神は耐えられない。保護と救済のなかった彼にはこの思いこみしか自衛方法がなかった)

幼い子どもが背負っていい十字架じゃなかった。あまりにも重すぎる透明の十字架。

それ以降、尾形の心にあの子がずっと棲みついてしまっている。

ところで、このブログは被虐待児だった私の経験談を書いたりもしているので、インナーチャイルド(アダルトチルドレン)のことにも触れている。

子ども時代を子どもらしく過ごせずに深い傷を抱えたまま大人になった人をアダルトチルドレン、またはインナーチャイルドなどと言うことがある。

私は虐待そのものもインナーチャイルドの原因になったが、尾形と同じように『子どもなのに親の代理で、ある役割を担わされた』というのも経験している。

それによって、

手を汚させられてしまった、無垢でいられなかった、穢れてしまったと思わされた、早く大人になって自分を守らねばならなかった、自分の心を殺さざるを得なかった、自分はここに居ていい理由(価値)がないと思わされた、など…

インナーチャイルドというとなんだか軽そうなカタカナだが、かなり重いのだ。

(絵がどクソ下手なのは自分が一番わかってるから触れないで…とくに尾形難しい!)

子ども尾形が担わされた役割は、父親の注意を引き、母親と会わせることだ。

現代とはまるで事情がちがう。当時のおっ母ができたことは、忘れるか、忘れたふりをするか、最悪の場合は自分で毒をあおるか…

その最悪のケースを幼い子どもが代理で行ったのだと私は思う。

ところで、尾形はサイコパスと混同されることがあるけど、サイコパスではないと思う。

(サイコパスには良心が無い。自分が魅力的に映るよう、善良で良心的な人間に振舞うサイコパスや自己愛性パーソナリティ障害は多いと聞く)

その理由のひとつは生まれ持っての性格と生育環境が大きいんじゃないかと思う。人格形成期に人から愛されているという実感を得られなかった。

それに、10代後半から20代は環境や人にとても影響される。軍隊に入ればなおのこと軍隊一色だったろう。

私の場合だけど、虐待によって自己肯定感と自尊心を養う機会がなかったことから自他の境界線があいまいになり、非常に傷つきやすかった。しかし、生き残るため(自殺をしないため)に「いや、もう乗り越えた過去だ」と自分を誤魔化しながら、過剰に自分をガードした。

つまり、強さを演出したのである。

だから、やられるまえにやれ、みたいな感覚や、あえて自分を粗末に扱う感じはわかる。

わざと粗野にふるまうとか、サイコパスっぽくふるまう人がいてもおかしくないと思う。

尾形は確かに、一般的な人に比べて悩む時間が猛烈に短いと思う。それはウィルクについての思い出話(仲間を見棄てるところ)と似ている。

これでもかというくらい一生懸命に理屈をこね繰り出す尾形。

もともと哲学的な性質もあるんだろう。

おそらくは本質的には純でウブな性質と思われる。そういう人の方が「無垢ではない自分」をより強く意識しやすい。

温かく保護し、正しく導いてくれる父性と母性の不在

子ども尾形、何歳くらいなんだろうなぁ、10歳くらいかなぁ…

きっと周囲の大人や、近所の子どもたちからの悪口かなんかで色々と知っちゃっていただろうと思う。おばあちゃんもしゃべっちゃってるし。

子ども尾形がいる水戸の自然はとても美しいけれど、ひとりぼっちなんだよなぁ…

私もそのくらいときには、父が会社の女の人と不倫して帰ってこないのも、家族旅行は行かないのに不倫相手と香港旅行に行っているのも、私が5歳のとき母がトラックにはねられて複雑骨折しても父は帰ってこなくて母が病院からこっそり抜け出して高熱でぶっ倒れて救急車が来たのも、父が経済DVをするから母が消費者金融から借金をして、借金取りが家に来ていたのも、近所からすごく悪く言われていたのもだいたい知ってた。

母が血まみれになって逃げた理由も、殺されかけたからだというのは分かっていたが、結局のところ私と弟は捨てられたのだと思わざるをえなかった。そして、天国の母には酷なことではあるが、その後の虐待がより苛烈になることから、それは事実だった。

私の弟もそうだったけど、あのくらいの年頃の男の子ってめっちゃお母さん思いなんだよね。

子ども尾形、壊れているおっ母をひとりぼっちで見ていなきゃならなかったのかわいそうだったな…

どうやら近所の子どもたちと遊んでいる気配がないのも、内気(そうに見える)な子ども尾形の思考と感情を偏らせてしまった一要素だったかもしれない。

この時点で、本来なら保護とカウンセリング、教育、あたたかな環境による救済が必要なんだけど、そのまま放置されてしまった尾形。

彼に犯罪を自覚させ、一緒に後悔し、償ってくれる大人がいなかった。

好奇心から幼児殺害を犯した少年の心理とその後の人生を描いたドラマがある。
要潤主演の「悪魔の弁護人 御子柴礼司」だ。

少年犯罪の“その後”と“罪を償うとはどういうことか?”をテーマしたドラマだ。

裁かれなかったことで、償いの場が与えられなかったことで、彼の人生はどのようなものになったのか…深く考えさせられた。

尾形は好奇心からではないが、母殺害後の尾形に何が必要だったのだろうか…少なくとも、多感な時期に身よりもなく、軍隊に入り、鶴見中尉と関わってしまったことは更なる不幸だった。

母親と一体化となり、母親の悲しみを肩代わりする子ども

子どもって、特に母親と子どもって一体になってしまう。

子ども尾形は、父親に愛されていないおっ母を見て(おっ母の振る舞いは夫に棄てられた女性そのものに映ったと思う)、つまりそれは「僕も見棄てられた」と認識する。

だから、母親を救済すれば(父親が会いに来れば)、僕も救済されるわけだ…

でも、来なかった。

「おっ母、見て」…と切実に願った相手を失い、一瞥もくれない父親の冷酷さを再認識せざるを得ない尾形。

父親がおっ母を見てくれる

そうすればおっ母はぼくを見てくれる

たぶん最初はこういう考えだったはずだ。

やがて、母の代理で父の注意を引く役割を演じさせられてしまう。

そして、母は死んでも父は来なかった。

母の代役の代償の理由探しと心の凍結

子どもなりの知識で「僕は愛されて、望まれて生まれてきたわけじゃないんだな」という理由を見つける。私たちだってそうだ。不運に見舞われたとき、理由を探す。

もともとあまり感情的な性格ではない(大人尾形はカッとなって怒鳴るというところは滅多に見られないし、ましてや人のせいにして癇癪を起すなどの言動はない)けれど、無表情のその下にある心はどんなだったろうか…

大人尾形は感情的ではないけど、ユーモアもあるし、なかなか面白い嫌味も言う。

尾形って、アシリパさんの恋心を察知したのも早かったし、杉元の故郷の思い人のことも、谷垣とインカラマッのこともすぐに勘づいたし、鶴見中尉の裏表にも気づいていたし、誰よりも先に偽物アイヌを見抜いたし、アシリパさんのお父さんのこともすぐに勘づいてたし、すごい気づく人なんだよね。

頭もいいし、人の心の機微にも敏感。

温泉に入る時も銃を近くに置く慎重さがあるし、ちょいちょい言う嫌味ったらしい冗談も的を射ているし、流し目と髪の毛かきあげる手つきと首すじがセクシーだし…なんか脱線した。

そういう人って、小さい頃からそう。

おっ母の痛みを感覚で理解してしまっていたのではないだろうか。

そして、母を殺めてしまう。母の代役として。

その代償が理由探しと心の凍結だった。

幼い心は生存本能として、通常の心理状態だと本当に壊れてしまうので心を凍結させたのだ。

「僕は高潔な人間ではない。その証拠に罪悪感を感じない。愛情の無い親が交わってできる子供は何かが欠けた人間に育つのでは…」

そんな理由をつけてしまう尾形。

それで、尾形は自分が欠けた人間である証明を重ねて、自分の心を騙し続ける。

それで、そんな尾形の心を深くえぐって傷に塩を塗り込んだのが鶴見中尉だ。

尾形の祖父母の失踪はほかの鶴見劇場と同じく、仕組まれた一幕である可能性が高いと私は思う。

心の支えが「だから俺は欠けた人間である」理論

生来の資質として純粋だった尾形。

『愛という言葉は神と同じくらい存在があやふやなものですが』

こんな言葉は、本質的な信仰心への問いかけがないと(神との対話を繰り返さないと)出てくるものではない。

環境も孤独になりがちだったから、認知の歪みを修正する機会はなかなか無かったのじゃないかな…

「祝福されなかった俺。だから俺は何かが欠けた人間である。」

これが、彼の支え棒になっていた。

その証明のために、自分の生存理由、つまり「欠けた人間」の証明のために、手を汚してきた…

これもまたひとつの自傷行為だと思う。

だから、この支え棒が折れたら困るのだ、何が何でも。

だって欠けた人間じゃなかったら、どうして僕は祝福してもらえなかったの?

(おっ母が亡くなって顔を見せに来なかった父親が、もしかしたら迎えに来てくれるんじゃないか…と淡く夢想したこともあっただろう)

仮に僕が祝福されていたら、おっ母を殺してしまった僕はどうすればいいの?

地獄の疑問である。

そして、その支え棒を揺るがしてきたのが勇作殿だ。

自分(&おっ母)には1mmの愛情も寄こさなかった父親が、勇作殿にはものすごい良い父親やってるのを聞いてしまったのもお互いの不幸だった。

勇作殿…「父上がー」とか、「はずがない」とか言わんでよかったんや。すべての元凶は親父なんだから。

勇作殿もさぁ、尾形が幼少期にどんだけ辛かったかちょっと想像してあげて…って「ボンボン」にはわかりようもないことではある…。

「祝福されているからゆえに(つまり庇護されている)、清いままでいられる勇作殿」から罪悪感のことを聞いて、支え棒が折れそうになって、心が崩壊しそうになったのではないか。

最も自分を追い詰めることを繰り返してしまう

そして、尾形の脳裏に一瞬だけ横切る、かつて銃で撃ち落とした鳥…

勇作は、尾形の罪悪感から悪霊のように描かれている。

彼自身が一番わかっていたから。

やってはいけないことをしてしまったことを。

繰り返してしまったことを。

そして、その苦悩とどう向き合ったらいいのかの手掛かりはアシリパにあることもどこかで気づいていた。

ただ、彼の顕在意識はそれを認めないために、彼の“良心”が勇作という形を取って現れたのだろうと私は思う。

なかなか妙な表現だと思ったのは、尾形が右目を失ってから勇作をリアルに視るようになったことだ。右目が先にあの世に行ったことで得た視界がこの世の物質ではなくあの世(というよりも彼自身の心の内)なのである。

アシリパが放つ毒でしか、彼に気づきを与えられなかったことが悲しくやるせない。

罪を償わなければならないと潜在意識に抱えている人は自罰的、あるいは破滅的に自分を酷使する。

インナーチャイルドはその人の問題を、繰り返させてくる。

同じパターンの失敗をなんども繰り返す人が多い。

今度こそは!と取り組むのに、またクズ男を愛してしまった。また対人関係でもめてしまった。というように。

家族を通して世界に信頼感を作り上げることができなかったからだ。

尾形百之助の孤独

もし、尾形がアイヌのコタンのように大勢に育ててもらえる環境だったら。

なんてね、色々考えるとね。

あの退場の仕方ね、もうね、辛くてね…

罪悪感を受け入れても大丈夫、一緒に受け入れるよって言ってくれる人が居たら…。って思うんだけど、あまりにも根が深い…

それに、毒がきっかけであれを見てるんだからどのみちだめだったかな…

自分が生み出した罪悪感の化身から、一番言って欲しかった言葉を聞いた…

こんな深い孤独、あるだろうか。

インナーチャイルドセラピーの本にこんなことが書いてある。

インナーチャイルドの癒しを決めたら、インナーチャイルドがあの手この手で問題を起こすが、振り回されてはならない。

自分が自分の親となって育てなおさなくてはならない。インナーチャイルドとともに育っていかなければならない。

とはいえ、それができるのはインナーチャイルドに気づいて、大きな膿み出しの作業が終わってからだ…

仮に、月島にとっての鯉登や、谷垣にとってのフチ、二瓶にあたる人物が尾形の近くに居たとしても、彼の心に溜まってしまったものを取り除かなくては、奥底にいるインナーチャイルドには届かなかったのではないかと思うのだ。

せめてもの救いは、あの坊やが最後に

『あぁ…でも 良かったなぁ』

と本当にうれしそうに言っていること。

僕は欠けた人間ではなかったみたいだね。愛されて生まれてきたんだね。

と続きそうだ…

私自身、セラピーのフラッシュバックでのたうち回ったが、最も受け入れがたかった事実は、「私は被害者だったし、今もなお苦しんでいるのだ。過ぎ去った過去ではなかった」という事実だった。

救済が誰からも与えられないのに、自分を被害者であると認めるのはとても怖いことなのだ。乗り越えてきたはずの幼少期、少年期、青年期へ戻されてしまう。

まるで、骨折していることに気が付いたら歩けなくなるので、骨折していないふりをするようなものである。

そうやって痛みを無視して歩いてきたのだから、体だって骨だって心だって砕けて歪む…

孤独に寄り添い続ける愛

最終回の山猫の絵を見たときに、「あぁ、そっか…尾形のことをこの世で一番理解している人が弔ってくれたんだ。ずっと忘れずに思い続けてくれていた人がいたんだ」と思ったら少し救われたような気持ちになった。

でも、やっぱり時間が経つと、生きてほしかったなぁという気持ちがこみあげてくる。

ずっと追いかけ続けてきた、ある意味では畏敬の念の対象者であった尾形の死というのは、ヴァシリにとってはアイデンティティの一部を失ったも同然だっただろう。

そこらへんの芸術家気取りならば、雄大な自然の中、あるいは孤独に洞窟の中で死を迎える絵を描く。

でも、山猫は線路の近くに横たわっていた。

わたしには、不条理な人間世界の犠牲になった「山猫」の死を描きたかったのではないか…と思えてならない。

ヴァシリならば、彼が最終的には自死したことを見た瞬間に悟ったはずだから。

線路の絵も途絶えるように消えている。山猫の命と同じように…

画家は生涯、尾形の孤独に寄り添い続けたのだと思う。それは、尾形が渇望した神の領域の愛に近いのではないか。

スナイパーの腕も一流、頭も冴えていて、普段はでしゃばらないのに危機の時には的確な指示が出せるデキる男・尾形。

はぁ~…作中のみんなに、もっと彼の努力と才能に気づいてほしかったな。

ぶっすらしているのにどことなく愛嬌があってかわいい人なところもみんなに気づいてほしかったな。

って言っても、白石とかすごく仲良くしてくれてたよね…

はぁー…ロスつらい。

射撃の腕も、自分の居場所の確保(生存していい理由)のためもあって上達させた側面はあっただろうな。もちろん、純粋に銃が好きで、唯一の相棒だったにしても。

(以下、蛇足駄文)

親が愛し合って生まれた(望まれた命)のかどうか、私もすごく気にしたころがあった。父親が愛人を作って家に帰らなくなったり母に生活費を入れなくなったりしたのは、私が5歳くらいのころ。

転勤してわりとすぐに不倫したと思う。なんでわかるのかって?

その頃、母はトラックにはねられて入院していたのだけど、はじめてのディズニーランドがなぜか不倫相手とだったからだよ!ね、クソでしょう?

それから家がどんどんおかしくなって…私って生まれてきちゃいけなかったんじゃないの?ってすごく自分を責めた…

私は30代前半にある出来事がトリガーになってパニック状態に陥って、20代からご縁があった占い師の姐さんのところに駆け込んだ。(もともとは占い師の寄り合い所のようなものを運営していた人で、虐待のことなども相談していた)

そこでそのままヒプノセラピーがはじまったのだけど、虐待のフラッシュバックと、最も辛い記憶を封じ込めていたらしく、そのセラピーで気づいてしまった事実があった。

「被害者だと思っていた母は…実は…」

乗り越えたつもりだったけど、自殺しないためにマヒさせていただけだった。もちろん、それも必要だった生き残りの知恵だったと今は思う。

これで、パンドラの箱が開いたような状態になり、なんとか帰宅したものの床を転げまわって窓ガラスに激突。その場に居合わせていた友人が毛布ごと泣きながら私をくるんで押さえつけてくれた。

虐待がリアルに再現され、いまだに見えない血を流し続けていたことを嫌というほど確認させられた。

大人の私視点でドキュメンタリー映画を観ている感じなので、全部わかってしまうのだ。

すでに他界していた母にはもう確認のしようもなく、これまでに「私は誰かに愛される価値がない人間である」という「証明行動を行ってきてしまった過去」をつきつけられた。

私の場合は、モラハラ問題の回復をテーマにしていた人との出会いや、支えてくれた友人がいた。8カ月ほど集中してセラピーに取り組んだが、強烈に辛かった。

その後はお金がなくなったこともあってセラピーには通わなくなったが、時々友人に手伝ってもらいながら少しづつ「諦観」を受け入れた。

その後何年もかけて、過去の解釈にはいくつかあるということを経験した。

自分が親になってはじめて、母と和解できた部分もある。もちろん、駄目なものは駄目、というところもある。

父にから絶縁を言い渡してきたにも関わらず、またもや私を利用しようと数年ぶりに電話があって心底から呆れた。まぁ、そういう人なのだ。

私自身がセラピーで地獄を見たので人には安易にすすめないが、だが、セラピー後から人生が明るくなったのも事実だ。