幽霊や妖精が見える赤ちゃんや子どもの話しを聞いたことがある方、または実際に自分が子どもの頃に見えていたという方。
私も、友人も子どものころに不思議なものを見たことがありますし、私の子どもも、4歳くらいまでは胎内記憶があったり、神様?が見えたりしていたようです。
私の子どものファンタジー体験は平城宮跡(へいじょうきゅうせき)で、でした。
今から1300年前、日本の首都だった平城京(へいじょうきょう/奈良県奈良市)。
その面影は平城宮跡で見ることができます。
目次
平城宮跡にある造酒司(みきのつかさ)井戸の跡
さて、そんな平城宮跡へ息子(当時2歳後半)と行った時のこと。
息子と四葉のクローバーを探しながら犬のウンコをまたいで歩いていました。(フン慨ですな)
「あそこに見える現代建築な東屋で涼もう」と思い近づいてみると、それは東屋ではありませんでした。
何かの史跡らしい……どうやら井戸の遺構だと判りました。
第一次大極殿より東へ1キロメートルほどの位置にある、造酒司(みきのつかさ)井戸跡です。
説明の看板を読むと、
遺構は盛土して保護し、その上に型取りした井戸の移行模型を展示している。
ふむふむ。つまり、儀式用の酒の醸造に用いた特別な井戸なんですな。
六角形というと、亀の甲羅のカタチに似ていることから縁起が良い、などと言われますね。
映画「ダ・ヴィンチコード」をご覧になった方ですと、「三角形と逆三角形が合体→陰と陽の調和」なんていう連想をされる方もいらっしゃるかもしれません。
そういえば、随分前に元伊勢神社の籠神社(このじんじゃ)と、その奥宮である真名井神社(まないじんじゃ・籠神社奥宮真名井神社)を訪れた際にも、六芒星=籠目(かごめ)の不思議に惹かれたのを思い出します。
籠神社のご神紋(社紋)のひとつが六芒星なのです。
星マークといえば、伊勢神宮や鞍馬寺を連想される方もいらっしゃるのではないでしょうか。
子どもが井戸で見たのは神様?井戸の精霊?
この井戸は儀式用のお酒を造るための井戸だったらしい……ということは、穢れてはならない重要な井戸だったはずです。
枯れないためのまじないや、穢れないための魔除けのような意味合いが六角形の屋根にあったのではないか?なんて想像が働きます。
神聖な井戸+六角形……ロマンですねぇ
さて。
写真の通り、ここが井戸の遺構だとはそうそうすぐにはわかりません。
私が案内看板を呼んでいると、2歳の息子がふとこう言ったのです。
息子は、乳児のころから神社参拝に付き合わされていたためか、この時すでに「ジンジャ」という概念がありました。
ただ、神社でなくても、古い日本家屋やお寺を見かけると「ジンジャ」と言い、なぜか、うどん屋さんの大黒様の置物も「ジンジャ」と呼びました。
(もし、解って言っているならすごいことです。だって、大黒様=オオクニヌシ(神様)ですから)
「神様がねんねしているの?」と息子に尋ねると、自信満々に「うん。ねんね。おきてー!」と井戸に向かって声を上げる息子。
慌てて、子どもに「しーーー!」と諭しました。
建物は一見、現代建築な東屋ですし、遺構そのものも石が並んでいるようにしか見えません。
息子はここをなぜ「ジンジャ」と言ったのか。
どうして「ジンジャ(神様)が寝ている」と言ったのか。
2歳児には、1300年前にバリバリとご活躍された井戸の神様が、今では土の下でお休みになられている様子が見えたのでしょうか。
その後、息子は4歳を過ぎた頃から不思議なものが見えなくなりました。
心霊写真(怖いのではなく、光の帯が写っている系)も撮れなくなりましたし、居るはずのない子どもの姿を見ることも、胎内記憶も忘れてしまいました。
幼いときにしか見えない感じることのできないものがあるのだなぁ……と思った出来事でした。
1300年前の首都・平城京
せっかくなので、少しだけ平城京のことも書いてみます。
「古都」と言えば、京都の平安京が真っ先に思い浮かぶ人が多いと思いますが、平安京の前にあった都(みやこ)はどこでしょうか?
奈良にある平城京(へいじょうきょう)!……かと思いきや、長岡京(京都)なんですね。
どこからどこへ遷都していったのかカンタンに確認です。
↓
◇ 平城京 (へいじょうきょう|現在の奈良県奈良市|710年~あちこち行くけど784年まで)
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◇ 恭仁京 (くにきょう|現在の京都府木津川市|740年~743年)
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◇ 紫香楽宮 (しがらきのみや|現在の滋賀県甲賀市|743年~744年)
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◇ 難波京 (なにわきょう|現在の大阪府大阪市|744年~745年)
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◇ 長岡京 (ながおかきょう|現在の京都長岡京市のあたり|784年~794年)
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◇ 平安京 (へいあんきょう|現在の京都府京都市|794年~いろいろあるんだけど1868年まで)
個人宅の引っ越しですら大変だというのに、都ですからね。
遷都を繰り返すのはさぞや労力とコストの要ることだったろうと思います。
捨てられた平城京は完ッ全に忘れ去られ、都の場所の特定すらできなかった
奈良市にある平城宮跡(へいじょうきゅうせき)を訪れると、朱雀門(すざくもん)や第一次大極殿(だいごくでん)などが復原されており、重厚で雅な存在感で佇んでいます。
が、しかし。
都が捨てられた後は荒れに荒れて荒れ放題、その後はずーっと田畑でした。
平城宮跡のどまんなかを近鉄奈良線が横断していることには驚きましたが、江戸時代のおわりまで本当に忘れ去られていたようです。
ウィキペディアによると、大正3年(1914年)に「上本町駅 – 奈良駅開業」と書いてあるので、その時に平城京跡に線路が通ったということでしょう。
明治になってから少しづつ、保存のための動きが始まりました。
棚田 嘉十郎(たなだ かじゅうろう)という植木職人、つまり、ごく普通の市民が私財をなげうって保存に尽力されたとのこと。
今の立派な平城宮跡以前の平城宮跡は、線路が通っている以外はなにもない、ただひたすら広い草っぱら・野原でした。
平城宮跡に立つと東には若草山が見え、西には生駒山が見えます。奈良の空は広いとつくづく感じます。
国営公園として本格整備が始まった平城京跡
そんな、どこか牧歌的でありつつ寂寥感も漂わせていた平城京跡ですが、ここ近年は国営歴史公園として整備が進み、2018年の3月に朱雀門ひろばが開園しました。
平城宮跡を横断している線路も、ゆくゆくは移設する?ようです。
【参照】
●平城宮跡の歴史と保存について、Kodayanさんという方のHPより
5月初めのゴールデンウィーク、奈良・平城宮跡北側の佐保・佐紀路を歩く
●棚田 嘉十郎について、奈良文化財研究所HPより
青年の志―平城宮跡を守った男達
●近鉄奈良線について、ウィキペディア・近鉄奈良線ページ