春分の日に、思い切って断捨離したんですよ。
断捨離ってモノを捨てることが目的なんじゃなくて、執着や未練を手離すことが目的なんですよね。
その過程で、自分が望むものや望む在り方を知るのですが……要は自分と向き合うわけです。
私が捨てたものは、子どものお祝いにいただいたオモチャでした。
思い切って断捨離したもの
子どもが生れた時に叔母からのお祝いでいただいたオモチャ。私の母はもういませんからすごく嬉しくて、ずーっと取っておいたんです。
汚れてしまっているし、壊れてる部分もあるし、もう必要ないのですがなかなか捨てられなくて。
で、気づいたんですよ。
「私は、祝福されたという証拠が欲しかったんだなぁ」と。
実父とは絶縁していますし、義理の家とも離れています。親戚も滅亡の一途。
私自身が虐待されて育って「お祝い」と縁がないんですよね。お誕生日も記憶にあるのは一度だけ。お年玉はほとんどなし。成人式も着物はとても無理だったので、バイト代で買ったスーツで行きました。
お祝いととにかく縁が薄い人生だから、子どものお祝いをしてもらったことが本当に嬉しかったんですね。
自分がお祝いされてるみたいで、嬉しかった。
捨てようとする時に「ズキッ」とするわけですよ。
厚意を捨てているような気持ちになって。
きっと……
自分が欲しかったものの権化だからズキッとしたのでしょう。
手離す前に手に入れているからこそ、手離せる
捨てることができたのは、あるものをすでに手にしているのだと思い出したからです。
私は育児がヘタクソで、自分をぼこぼこにしてやりたくなることがよくあります。それでも、わが子の幸せを誰よりも信じ願っています。
そして、そのためには「私が子どもに依存しないように、幸せを感じながら生きること」がとても大切だと知っています。
そういう、ひとつの答えを手にしています。
「このオモチャがなくても、私はそれをちゃんと理解している」と思えたことが、捨てることを後押ししたわけです。
一緒に卒業できた辛い思い
子どもが生まれてからというものの、「とにかく、新生児が死なないように」と、大げさじゃなくて、本当にそこを目標にワンオペ育児をしてきました。
「壁に穴が開いてもいいや、子どもが無事なら。洗濯物が夜も干しっぱなしでもいいし、お風呂なんて1日2日入れなくてもかまわない。子どもだけは温かいお湯とタオルで拭いてあげればなんとかなる」
そう思っていないと、たった一人でナマモノを24時間保護し続ける精神がもちませんでした。
そういう、あまりにもしんどかった育児期間に対しても、「ありがとう、もう大丈夫。さようなら」できたのです。
色々なものを手離せた断捨離となりました。