なぜ自殺をしてはいけないの?愛とは?生きる目的とは?~観音様の「観音」の語源とともに~

なぜ、自殺をしてはいけないか。

自分が自分を見棄てることは最も“愛”から遠い行為だからです。

じゃあ、“愛”って一体なんなんでしょうか?

私は長いこと虐待を受けて育ちました。

父に苛烈な暴行を受けた母は血まみれになって逃げました。その数年後、弟は家に灯油を撒いて一家心中を試みようとしました。

虐待、誘拐未遂、モラハラなどを経験し、のちに占いを通して、生きることや愛について長年考えてきた私なりの“愛”について、今回は書いていきます。




なぜ自殺してはいけないか?

私の夫は楽観視できない癌が判明し、大きな腫瘍を取り除く手術をしました。今も半年ごとに検査をしています。

母は50代で末期癌が判明し闘病の末、他界しました。

近親者の死や病気は“愛”を捉え直し、“生”を見つめ直す大きな機会となります。

自分が自分を見棄てることは最も“愛”から遠い行為だ、と冒頭で書きました。

見棄てるのは自分の“命”に限ったことではありません。魂、精神、霊性も含まれます。

私は生きている価値などないのではないか?
俺は幸せになる資格なんてないんじゃないか

そう疑いながらも生きるのが“愛”なのです。

自分で自分に呆れていても、それでもどうしても自分を見棄てられない、それが愛です。

虚無感の沼で苦しみながらも、それでも自分の人生を見放せない、それが愛です。

これは自己愛の源であり、人間が生きるための最も根幹的な本能です。

人は孤独を感じるようにプログラムを組まれている

人は「自分以外の誰かを愛して初めて自分の価値を見い出す」という、自己愛と他者愛の両立プログラム(私が勝手に命名)を持って生まれてきました。

他者の存在(子ども、パートナー、ペット、仕事、使命)なしでは自分を芯から慈しむことができないようになっています。

人間は単独で生き延びるのが困難な生き物です。食料を得るのも生命を繋ぐのも他者の存在が必要です。

誰かの役に立ちたい
誰かを愛したい

こういった欲求は多かれ少なかれ誰にでも在り、人間は一人で完結しないようにプログラミングされているのです。

一人で完結したら家族やパートナーを持とうと思わず、人類の歴史はとっくに終わっていたでしょう。

一人でも生きていける人は、一切の執着から離れることができた仏陀(お釈迦様)と、ジャングルでも生き延びることができるサバイバル能力のある人だけです。

もちろん、孤独に強い人と弱い人とそれぞれの感性の差や性格の違いはあります。

同じ表現・同じ濃さでの愛のお返しを求めることは恐喝に近い

あなたが誰かを慈しむとき、その誰かがあなたと全く同じ表現・同じ濃さで慈しみ返してくる……そんな期待を抱いてはいけません。

それを望むとしたら、それは愛ではなく支配欲です。

恋人であれ、夫婦であれ、親子であれ、「あれだけ愛したのだから、同じ濃さで愛し返してくれ。同じ量かそれ以上の見返りをよこせ」「俺の愛の三分の一でもいいから返してくれ」などと相手に要求するものではないのです。

その一方、

「愛するわが子(パートナー/親友)に、生きていてほしい。この子を失いたくない」

「愛するわが子(パートナー/親友)のために、私はなんとか生きねばならない。孤独にさせてなるものか」

このように思うのは、人間の根源的な希望であり本能です。

“生きていれば、生きてさえいれば、なんとかなる

この、根拠のない希望的観測は、人間の本能と言っていいのではないでしょうか。

なぜそのような本能がプログラムされているのだと思いますか?

それは、生きることは変化することであり、変化することは可能性そのものだからです。つまり、生は可能性とともにあるのです。

個(自己愛)と全体(他者への愛)の循環

自己愛は、自分を保護するプログラムです。また、自分の存在を肯定するために他者から愛を求めようともします。

他者への愛は、他者のために自分が差し出す愛です。他者に生きていて欲しいからです。

この両方の愛が循環する状態を、人は無意識に求めています。どちらか欠けると虚しくなったり孤独を感じたり絶望したりします。

「自分は愛に見放されているのではないか」

人生に絶望し、教会や神社に駆け込む知人友人を多く見てきました。

もちろん、私もその一人です。

母の墓前や神社の境内の隅で泣くしかない年月も、決して短くありませんでした。

孤独な人は神や信仰と近くなりますが、それは特定の宗教を信じるのとは意味が違います。

エネルギーの循環は可能性を生みます

あなたが今の考えのまま、これから何十年と生きていくことは、確実にあり得ません。人には可能性があるからです。

自殺をしてはいけない理由は、ここにあります。

物事も、状況も、環境も、あなたの価値観も、必ず変化します。あなたは、生きてさえいれば可能性を生むことができるからです。

観音という言葉から、観音様の存在と役割に愛を見る

ここで、観音様の観音という字を見てください。

観音様は『音を観る』と書きます。

は、観察の観ですね。観ること。観察ですから、ぼーっと見ているのではなく、目を大きく見開いてよく見る状態を指します。

は、人生を生きるなかでの様々な声……嬉しい、愛しい、清々しい、悲しい、虚しい、嫉妬、憎しみ……などの感情や思考、すべての【声】のことを表します。

心から大切に思う人に悲惨な出来事が襲いかかったら、「代わってあげたい」「自分の無力さが情けない」と思うものです。

愛する人が不慮の事故や難病で病床にいるとき、そばで見守ることしかできない自分が許せない……そのような苦しみを経験したことがある方もいるでしょう。

どんなに悲惨で辛い事実であっても、目をそむけずに見守る存在
か細く、今にも消えてしまいそうな声を聞きのがさない存在
声を上げられずに沈黙の中で苦しむ声をも掬い上げる存在
無言だけれども、そっと心に寄り添う存在

それが、きっと観音様なのではないかと思っています。

私は純文学作家の遠藤周作※(ブログ下記に説明)のファンで、その著書から『愛とは見棄てないことだ』いうメッセージを受け取りました。

自分の人生を見棄てない

この言葉に心を寄せたのは、私が虐待などで孤独を味わったからなのでしょう。(プロフィール参照

遠藤周作は、幼少期を満州で過ごしました。両親が離婚し、1933年に母と帰国。その後、自分の意志とは無関係にクリスチャンになりました。

純文学作家ですから大変重いテーマを扱う一方、別の名前でふざけた面白い著作も発表する方でした。

まだスピリチュアルという言葉がなかった当時、死後の世界についても真摯に調べエッセイにしています。ご自身が大病を患い、手術や入院の多い方だったのです。医療ミスで大変な苦痛を経験し、医療と患者の関係を問う活動もされていました。

遠藤周作は、イエス・キリストに観音様の雰囲気を感じたのかもしれないと、私は思うのです。


(もし、遠藤周作さんの著書でそのように書かれていたら、私が知らないだけですのでご容赦ください)

愛とは何なのか?

遠藤周作はこうも書いています。

“神とは働きだ”と。

居るとか在るとか、そういう存在そのものではなく、至る所に働く作用。それが神だと書いています。

この働きは、幸福な時よりも辛苦の時にこそ働くようです。

人生には途方も無い孤独が幾度か訪れますが、神様もご先祖様も、存在そのものではありませんから直接の手助けはできません。

そんな孤独のさなかに静かに寄り添っているのが、観音様であり、イエス様であり、人によっては故郷の山海の神様であり、あるいは他界した母親や、あなたを心から信頼したペットたちなのではないかと、私は思っています。

インフルエンザの高熱で苦しむ子どもを、赤い目でただただ見守るしかできない親のように……。

あなたの孤独を「私はあなたの苦しみを知っている」と寄り添うその働きをカタチにしたのが、観音様などをはじめとする信仰なのではないでしょうか。

この世の物差しから見れば孤独な人でも、心にいつも神を宿す人は孤独ではありません。自分を決して見棄てたり見放したりしない(=愛)からです。

弟が一家心中を図ろうとしたとき、それを阻止したのは私の強い怒りでした。

怒りが煮えたぎっていたからこそ、「絶対に自殺なんてするものか!どうして私が死ななければならないのだ!」と強く居られたのです。

あの時、私は私を見放しませんでした。あの怒りは、“働き”だったのではないかと思うのです。

また、人生の辛い時期にこの世の出来事として、自分に寄り添ってくれる人と見棄てて去って行く人がいます。

大抵の人は去って行きます。口先では優しいことを言いながらも実際には遠巻きにこちらの様子をうかがっているだけの人がほとんどです。

あるいは、それは己の身から出た錆びを自覚すべき時なのかもしれません。

そういった、「気づきをもたらす事象」を“愛”や“働き”と表現することもあるでしょう。

目には見えぬ働きと、私たちの内側にある働きを“愛”と表現するのです。

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後書き

※遠藤周作

純文学作家であり、かつ、ユーモアある大衆作家の顔も持つ。今で言うスピリチュアルにも関心を持ち、生まれ変わりなどについても執筆。

重い病気を患い、医療過誤の被害にも遭った経験などから「心あたたかな医療」運動を提唱し活動。

幼少期に母親の希望でキリスト教徒となり、うちなる葛藤と向き合い続けました。

信仰と葛藤、人生の深い孤独の底で見た“あるもの”を題材にした名作「沈黙」は映画化もされています。


沈黙 (新潮文庫)


沈黙 -サイレンス-(字幕版)

宇多田ヒカルの「ディープ・リバー」という歌は遠藤周作の深い河から着想。

フジテレビ専務取締役の遠藤 龍之介氏は遠藤周作の息子である。

※仏教哲学について、また遠藤周作さんについて、私感を書いております。どうぞご寛容くださいますと幸いです。

(2017年2月の記事をリライト)

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