なぜ自殺をしてはならないのか。愛とは何か。~観音様の「観音」という言葉の語源とともに~

愛は、生活そのもの

私の夫は楽観視できない病気を持っています。

偶然が重なって判明し、手術しました。

私はすでに母を癌で亡くしていますが、近親者の死や病気は「愛」を捉え直し、「生」を見つめ直すおおきなきっかけになるものです。

私は【愛】というものが、キラキラと美しく光る宝石のようなものだとは思っていません。責任と忍耐が伴う地味な日常の合間に、時折ふと優しい瞬間が訪れるようなものです。

それは登山に似ていて、ヒィヒィぜぇぜぇと山道を登り、ふっと爽やかな風が吹き抜けていくことに気づいた瞬間です。岩に腰掛け、眼下に広がる景色や雲が地上に落とす影を眺めるようなもの。

育児、介護、夫婦、ペットを看取る、農作物を育てる、教育、医療……

いずれも、キラキラ輝いていて楽しくて笑顔でいられる時間よりも、コツコツと地味で実直な時間が長いはずです。

自己犠牲と忍耐は、まったく違う別のものです。

自己犠牲は心の自殺に近い色合いを帯びています。

忍耐は、「筋トレ」のようなもので、日常を丁寧に生き、生活を愛するために駆使する知恵です。

なぜ自殺してはいけないか?

なぜ自殺をしてはならないか。

それは、自分が自分を見捨てることは最も「愛」から遠い行為だからです。

見棄てるのは自分の「命」に限ったことではありません。魂、精神、霊性ももちろん含まれます。

純文学作家の遠藤周作※(ブログ下記)「愛とは見棄てないことだ」と、自著の中で書きました。

「自分は生きている価値などないんじゃないか」

そう疑いながら生きる、これは愛です。

自分で自分に呆れていても、それでもどうしても自分を見棄てられない、それが愛です。

まず先に自己愛があり、その後、自己愛と他者(自分以外の何か)への愛との融合へ向かいます。

愛は、自己愛だけでなく、他者への愛だけでもなく、その両方であると私は考えます。

大抵の人は「自分以外の誰かを愛して初めて自分の価値を見い出す」という、他者の存在なしでは自分を本当には慈しむことができない傾向があります。

だからこそ、人は一人で生きられないのでしょう。

一人でも生きていける人は、一切の執着から離れることができた仏陀のような人なのだと思います。

「大切な人に、生きていてほしい」
「大切な人のために、なんとか生きよう」

「あの人を失いたくない」
「あの人に失わせたくない」

これらの思いは、仏教哲学ではもしかしたら「執着」なのかもしれません。
スピリチュアルから見ても「独り善がり」であるかもしれません。
霊性を無視した価値観なのかもしれません。

しかし、この思いには人間の根源的な希望が込められています。
「生きていれば、きっと幸せがある」
これは、人々の本能に近い思いであり、願わずにいられないものです。

ある意味では「執着」とも捉えられるこの感情が全ての始まりです。

「やれることをやれるだけやった、あとは天命を待とう」……この気持ちは、自分を棄てるのとは全く違いますね。清々しい諦観は時折、執着を手放した自由な状態を伴います。

人は誰しもが、ここに到達する前に七転八倒します。

執着を手放した自由な状態に向かうはじめの一歩が【自己愛】なのだと思います。
その先に、【他者への愛】が待っているのではないでしょうか。

【自己愛】と【他者への愛】が融合した状態が、愛の目的です。

個と全体。
過去・現在・未来。

以前にも書きましたが、「分離」と「統合」です。

そして、【今の考えのまま】これから何十年と生きていくことは、あり得ません。それが人の可能性というものだからです。

自殺をしてはいけない理由は、ここにあります。

物事も、状況も、環境も、あなたの価値観も、必ず変化するからです。

「分離」と「統合」についての記事→「分離と統合について/それらが私自身であるならば、戦争や貧困もまた私自身という事になりませんか?」

自分の体なんだから好きにしていいでしょ?→ダメな理由3つ

観音の語源、観音様という存在と役割

「自分の人生を見棄てない」

この言葉に心を寄せたのは、私が虐待などで孤独を味わったからなのだと思います。(プロフィール参照

観音様は、音を観る、と書きます。

は、観察の観ですね。観ること。観察ですから、ぼーっと見ているのではなく、目を大きく見開いて見る状態を指します。

は、人生を生きるなかでの様々な声……嬉しい、愛しい、清々しい、悲しい、虚しい、嫉妬、憎しみ……などの感情や思考、すべての【声】のことを表します。

自分が心から大切に思う人に悲惨な出来事が襲いかかったら、「変わってあげたい」「もう、見ているのも辛い」「自分の無力さが情けない」と思うものです。

愛する人が不慮の事故や難病で病床にいるとき、そばで見守ることしかできない、そのような苦しみを経験したことがある方もいるでしょう。

●どんなに悲惨で辛い事実であっても、目をそむけずに見守る存在
●か細く、今にも消えてしまいそうな声を聞きのがさない存在
●声を上げられずに沈黙の中で苦しむ声をも掬い上げる存在
●ただ無言で寄り添う存在

それが「観音」というものなのではないかと、私は思っています。

遠藤周作は、イエス・キリストにもしかしたら、そんな観音様の雰囲気を感じたのかもしれませんね。


(もし、遠藤周作さんの著書でそのように書かれていたら、私が存じ上げていないだけですのでご容赦ください)

自分の苦しみも虚無感も、誰も気づいてくれない。

そんな孤独のさなかにも【愛】が寄り添っていたとしたら。

それは、観音様なのかもしれないし、イエス様かもしれません。

人によってはマリア様であり、地元の山海の神様であり、あるいは他界した母親かもしれません。

ただ、そっと寄り添うことも、祈りを込めて一緒に生きるのも愛です。

遠くから大切な人の幸せをひっそり祈る、これもやはり愛です。

様々な事情があって一緒に住めない愛するあの人へ。

天国へ旅だった愛するあの人へ。

天国から、愛するあの人へ。

そして、私は私に寄り添う。私は私を見棄てない。私は私の子であり、同時に親である。

※遠藤周作

純文学作家であり、かつ、ユーモアある大衆作家の顔も持つ。今で言うスピリチュアルにも関心を持ち、生まれ変わりなどについても執筆。

重い病気を患い、医療過誤の被害にも遭った経験などから「心あたたかな医療」運動を提唱し活動。

幼少期に母親の希望でキリスト教徒となり、うちなる葛藤と向き合い続けました。

信仰と葛藤、人生の深い孤独の底で見た“あるもの”を題材にした名作「沈黙」は映画化もされています。


沈黙 (新潮文庫)


沈黙 -サイレンス-(字幕版)

宇多田ヒカルの「ディープ・リバー」という歌は遠藤周作の深い河から着想。

フジテレビ専務取締役の遠藤 龍之介氏は遠藤周作の息子である。

※仏教哲学について、また遠藤周作さんについて、私感を書いております。どうぞご寛容くださいますと幸いです。

(2017年2月の記事をリライト)