なぜ、自殺をしてはいけないか。
なぜ、自分を見棄ててはならないのか。
私は幼少期から青年期まで虐待、社会人になってから苛烈なモラハラなどを経験し、生きることついて長年考えてきました。
目次
なぜ自殺してはいけないか?
それでも
どうしても
自分を見棄てられない…
虚無感の沼で苦しみながら自分の人生を見放せずにいるのなら、それはじつは「愛」なんだと思います。
人間が生きるための最も根幹的な本能、自己愛の源なのではないでしょうか。
人は孤独を感じるようにプログラムを組まれている
自己愛は、自己を保護するプログラムです。自分が飢えないようにするためです。また、自分の存在を肯定するために他者から愛を求めようともします。
他者への愛は、他者のために自分が差し出す愛です。そのなかには献身だけでなく、その人のことを思えばこそ自分は身を引く愛も入ります。困っている人にそっと手を貸す愛。見返りを求めない愛。
この両方の愛が循環する状態を、人は無意識に求めています。私たちは給料のために、と割り切って働きますが、ふと「ありがとう」と言われると心があたたくなります。
自己愛と他者への愛、どちらかが欠けると虚しくなったり孤独を感じたり絶望したりします。
人間は長い長い歴史のなかで、子孫繁栄や食料を得るために、集団で生き延びることを選びました。
他者からの親切を嬉しく思ったり、孤独を感じて寂しくなったり、自分以外の存在によって自分を慈しむことができるのは、それが人類が生き残る過程で必要だったから。
「自分だけで完結できない」ようになっているのです。
もちろん、孤独に強い人と弱い人とそれぞれの感性の差や性格の違いはあります。現代では孤高を好む人でも充分生きやすくなっています。
それでも、
誰かを愛したい
こういった一見「弱さ」に思える気持ちがあるからこそ、家族のために火事場のくそ力や勇敢さを発揮できるのでしょう。
そうでなければ他者を踏み台にし、自分だけが生き残ります。
人類が一人で完結したら、家族やパートナーを持とうと思わず、私たちの歴史はとっくに終わっていたでしょう。
場所のエネルギー、変化に伴うエネルギーは可能性を生む
成仏できない霊はなぜ成仏できないかというと、一切の「変化」がないからだそうです。
私たちはどんなに悲しくても、眠くなったり、喉が渇いたりします。
でも幽霊はそうはいきません。物理的な変化が勝手に起こってくれない世界にいます。
私たちは、絶望のなかでも眠くなれば眠ります。数時間後に目が覚めると、少し気分が変わっていることがあります。
喉の渇きを潤すために、歩いて行って冷蔵庫を開けたり、水道の蛇口をひねったりします。数時間後、トイレに行きます。そこで日が暮れていることに気づきます。
こういう小さなことを繰り返していくうちに、少しずつ気持ちにも変化が生じてきます。
生きていると環境や状況は必ず変化します。髪の毛や爪が伸びるように。外が明るくなって暗くなったことを感じるように。大きな変化としては、外に出かけたり、今まで読んだことのない分野の漫画に興味を持ったり、転職したり、引っ越したりするように。
すなわち、生きてさえいればエネルギーは動きます。
幽霊は、ほかの幽霊が肩をつかんで揺さぶってきて、「おい、目を覚ませ!」とか言ってもらえません。ダイレクトメールも届きません。通りすがりの幽霊が「何かお困りですか?」と声をかけてくれたらいいのですが、霊能友人からそういう話を聞いたことがありません。
だから、子孫である私たちが一生懸命に生きているのを見て「あぁ、もっと頑張ればよかったな」と気づけたら、ものすごい幸運なのだそうです。
子孫である私たちがお線香をあげて、「どうぞ成仏してくださいね」と祈ることが応援になるのだそうです。
私たちは生命体です。エネルギーの動きに伴って何かしらの可能性が生まれます。
私たちは『今の考えのまま』、これから何十年と生きていくことはあり得ません。
自殺をしてはいけない理由は、ここにあります。生きていれば変化できるからです。
物事も、状況も、環境も、価値観も、必ず変化します。生きてさえいれば可能性を生むことができます。
私は、人生のどん底から少しずつ抜け出したきっかけは神社めぐりでした。
本当の気持ちを話す相手が、死んだ人(母)か神様しかいなかったのです。
早朝の神社で誰の目も気にせずに、辛い苦しいとこぼす日々を過ごしているうちに、段々と何かが変わってきました。エネルギーに変化が生まれました。
薄皮をはいでいくように、少しずつ少しずつ…
観音という言葉には寄り添う慈愛慈悲が込められている
観音様の観音という字から「神」や「愛」を見出すことができます。
観音は『音を観る』と書きます。
観は、観察の観ですね。観ること。観察ですから、ぼーっと見ているのではなく、目を大きく見開いてよく見る状態を指します。
音は、人生を生きるなかでの様々な声……嬉しい、愛しい、清々しい、悲しい、虚しい、嫉妬、憎しみ……などの感情や思考、すべての【声】のことを表します。
私たちが凍り付くような苦しみのなかにいるとき、私たちを直接あたためることはできませんが、私たちを見ています。
●どんなに悲惨で辛い事実であっても、目をそむけずに見守る存在
●声を上げられずに沈黙の中で苦しむ声をも掬い上げる存在
●無言だけれども、そっと心に寄り添う存在
それが観音様なのだと私は思っています。
人生には途方も無い孤独が幾度か訪れますが、神様もご先祖様も、存在そのものではありませんから直接の手助けはできません。
そんな孤独のさなかに静かに寄り添っているのが、観音様であり、イエス様であり、人によっては故郷の山海の神様であり、あるいは他界した母親や、あなたを心から信頼したペットたちなのではないでしょうか。
人間は、目には見えぬ働きや私たちの内側にある働きを「神性」「愛」などと表現してきました。
私の弟が一家心中を図ろうとしたとき、偶然、それに気づくことができました。そして、それを阻止した力は私の強い「怒り」でした。泣く弟を見て、煮えたぎる怒りが湧いてきたのです。
「あんなやつらのために絶対に自殺なんてするものか!どうして私が死ななければならないのだ!」と。
あの時、私は私を見放しませんでした。あのとき湧いた怒りは、神による“働き”だったのではないかと思うのです。
▶【関連記事】自分を許すとは?
▶【関連記事】Q「自分の体なんだから好きにしてもいいでしょ?」→A「自分の心身を傷つけてもいいか?という意味ならダメです」
同じ表現・同じ濃さでの愛のお返しを求めることは恐喝に近い
私たちが誰かを慈しむとき、その誰かが私と全く同じ表現・同じ濃さで慈しみ返してくる……そんな期待を抱いてはいけません。
それを望むとしたら、それは愛ではなく支配欲です。
恋人であれ、夫婦であれ、親子であれ、「あれだけ愛したのだから、同じ濃さで愛し返してくれ。同じ量かそれ以上の見返りをよこせ」「俺の愛の三分の一でもいいから返してくれ」などと相手に要求するものではないのです。
その一方、
「愛するわが子(パートナー/親友)に、生きていてほしい。生きて人生を味わってほしい」
「愛するわが子(パートナー/親友)のために、私はなんとか生きねばならない。孤独にさせてなるものか」
このように強く思うものです。
“生きていれば、生きてさえいれば、なんとかなる”
この、根拠のない希望的観測は、人間の本能と言ってもいいものであり、なぜそのような本能がプログラムされているのでしょうか。
それは、生きることは変化することであり、変化することは可能性そのものだからです。
つまり、私たちは可能性とともにあります。
後書き
私は遠藤周作※(ブログ下記に説明)のファンなのですが、著書にある『愛とは見棄てないことだ』『神とは働きだ』というメッセージが心に強く残っています。
居るとか在るとか、そういう存在そのものではなく、至る所に働く作用。それが神だと書いています。
この働きは、幸福な時よりも辛苦の時にこそ働くようです。
遠藤周作は、幼少期を満州で過ごしました。
そこで両親が離婚し、1933年に母と帰国。
自分の意志ではなく母親の希望でキリスト教徒となり、うちなる葛藤と向き合い続けました。
純文学作家ですから大変重いテーマを扱う一方、別の名前でふざけた面白い著書もあります。
まだスピリチュアルという言葉がなかった当時、死後の世界についても真摯に調べエッセイにしています。偏見や差別がない御方なのでしょう。
重い病気を患い、医療過誤の被害にも遭った経験などから「心あたたかな医療」運動を提唱し活動を続けました。
そんな経歴を持つ遠藤周作は、イエス・キリストに観音様の雰囲気を感じたのかもしれないと思うのです。
信仰と葛藤、人生の深い孤独の底で見た“あるもの”を題材にした名作「沈黙」は映画化もされています。
宇多田ヒカルの「ディープ・リバー」という歌は遠藤周作の「深い河」からの着想です。
フジテレビ専務取締役の遠藤 龍之介氏は遠藤周作の息子。
※仏教哲学について、また遠藤周作さんについて、私感を書いております。どうぞご寛容くださいますと幸いです。
(2017年2月の記事をリライト)