なぜ自殺をしてはいけないの?自分が自分を見棄ててはいけない理由とは?

なぜ、自殺をしてはいけないか。

“自分が自分を見棄てる”ことは最も愛から遠い行為だからです。

私の弟が小学6年生のとき、虐待を苦にして心中を試みたことがありました。夜中に変な音が聞こえて目が覚めたので防げました。私たちは毎日毎日、暴力と暴言に怯えていました。

大人になっても、会社のモラハラやいじめなどで鬱状態になり虚無感の沼でもがきました。

って一体なんなんでしょう。

いえ、そもそも愛なんてあるのでしょうか。

父に苛烈な暴行を受けた母は血まみれになって逃げました。破れたカーテン、割れた窓から野良猫が入ってきていました。

母を探しに道路に出ると、路面にも血がポタポタと落ちていました。弟が一家心中を試みようとしたのはその数年後でした。

私は虐待、誘拐未遂、モラハラなどを経験し、のちに占いを通して、生きることや愛について長年考えるようになりました。

なぜ自殺してはいけないか?

私の夫は楽観視できない癌が判明し、大きな腫瘍を取り除く手術をしました。今も半年ごとに検査をしています。

母は50代で末期癌が判明し闘病の末、他界しました。

近親者の死や病気は“生”を見つめ直す大きな機会となります。

自分が自分を見棄てることは最も“愛”から遠い行為だ、と冒頭で書きましたが、見棄てるのは自分の“命”に限ったことではありません。魂、精神、霊性も含まれます。

私は生きている価値などないのではないか?
俺は幸せになる資格なんてないんじゃないか

こんなふうに自分で自分に呆れていても、望みを見出せなくても、それでもどうしても自分を見棄てられない、それは紛れもなく愛だと思うのです。

もし、今、あなたが虚無感の沼で苦しみながら自分の人生を見放せずにいるのなら、それはやっぱり愛なんだと思うのです。

それこそが自己愛の源であり、人間が生きるための最も根幹的な本能だからです。

人は孤独を感じるようにプログラムを組まれている

人は「自分以外の誰かを愛して初めて自分の価値を見い出す」という、自己愛と他者愛の両立プログラム(私が勝手に命名)を持つことで、サバイバルリスクを下げようとしています。

人間は長い長い歴史のなかで、子孫繁栄や食料を得るために、集団で生き延びることを選びました。

そのひとつに、「自分だけで完結できない」ということがあるのではないでしょうか。

人からの親切を嬉しく思ったり、孤独を感じて寂しくなったり、自分以外の存在によって自分を慈しむことができるのは、それが人類が生き残る過程で必要だったからだと私は考えています。

もちろん、個人によりますし、現代では孤高を好む人でも充分生きやすくなっています。

それでも、

誰かの役に立ちたい
誰かを愛したい

こういった一見「弱さ」に思える気持ちがあるからこそ、愛するわが子や家族のために火事場のくそ力や勇敢さを発揮できるのでしょう。

そうでなければ他者を踏み台にし、自分だけが生き残ります。結局は家族単位で生き残ることができません。

人類が一人で完結したら、家族やパートナーを持とうと思わず、私たちの歴史はとっくに終わっていたでしょう。

もちろん、孤独に強い人と弱い人とそれぞれの感性の差や性格の違いはあります。

自己愛は、自己を保護するプログラムです。自分が飢えないようにするためです。また、自分の存在を肯定するために他者から愛を求めようともします。

他者への愛は、他者のために自分が差し出す愛です。わが子に食べ物を譲る愛です。

この両方の愛が循環する状態を、人は無意識に求めています。どちらかが欠けると虚しくなったり孤独を感じたり絶望したりします。

場所のエネルギー、変化に伴うエネルギーは可能性を生む

「自分は愛というもの、あたたかな家庭というものに見放されているのではないか」「誰からも必要とされないのではないか」

私も何度も人生に絶望し、教会や神社に駆け込んだり、他界した母の墓前で泣いたりしました。

しかし、生きていると環境や状況は変化します。転職したり、引っ越したりするものです。

すなわち、生きてさえいればエネルギーは動きます。

エネルギーの動きに伴って可能性が生まれます

私たちは今の考えのまま、これから何十年と生きていくことはあり得ません。

自殺をしてはいけない理由は、ここにあります。

物事も、状況も、環境も、価値観も、必ず変化します。生きてさえいれば可能性を生むことができます。

まずは近所の公園に行って太陽に当たり、風を感じ、雨音に耳を傾けるのです。

私自身が神社めぐりでどん底の運気から這い出した経験からも、これは力説させてください。

観音という言葉には寄り添う慈愛慈悲が込められている

観音様の観音という字から「神」や「愛」を見出すことができます。

観音は『音を観る』と書きます。

は、観察の観ですね。観ること。観察ですから、ぼーっと見ているのではなく、目を大きく見開いてよく見る状態を指します。

は、人生を生きるなかでの様々な声……嬉しい、愛しい、清々しい、悲しい、虚しい、嫉妬、憎しみ……などの感情や思考、すべての【声】のことを表します。

観音様は私たちの魂の親のようなものです。私たちが凍り付くような苦しみのなかにいるとき、私たちを直接あたためることはできませんが、私たちを見ています。

どんなに悲惨で辛い事実であっても、目をそむけずに見守る存在
声を上げられずに沈黙の中で苦しむ声をも掬い上げる存在
無言だけれども、そっと心に寄り添う存在

それが観音様なのだと私は思っています。

人生には途方も無い孤独が幾度か訪れますが、神様もご先祖様も、存在そのものではありませんから直接の手助けはできません。

そんな孤独のさなかに静かに寄り添っているのが、観音様であり、イエス様であり、人によっては故郷の山海の神様であり、あるいは他界した母親や、あなたを心から信頼したペットたちなのではないでしょうか。

人間は、目には見えぬ働きや私たちの内側にある働きを「神性」「愛」などと表現してきました。

私の弟が一家心中を図ろうとしたとき、それを阻止したのは私の強い怒りでした。泣く弟を見て、煮えたぎる怒りが湧いてきたのです。

だからこそ、「あんなやつらのために絶対に自殺なんてするものか!どうして私が死ななければならないのだ!」と強く居られました。

あの時、私は私を見放しませんでした。あのとき湧いた怒りは、神による“働き”だったのではないかと思うのです。

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同じ表現・同じ濃さでの愛のお返しを求めることは恐喝に近い

私たちが誰かを慈しむとき、その誰かが私と全く同じ表現・同じ濃さで慈しみ返してくる……そんな期待を抱いてはいけません。

それを望むとしたら、それは愛ではなく支配欲です。

恋人であれ、夫婦であれ、親子であれ、「あれだけ愛したのだから、同じ濃さで愛し返してくれ。同じ量かそれ以上の見返りをよこせ」「俺の愛の三分の一でもいいから返してくれ」などと相手に要求するものではないのです。

その一方、

「愛するわが子(パートナー/親友)に、生きていてほしい。生きて人生を味わってほしい」

「愛するわが子(パートナー/親友)のために、私はなんとか生きねばならない。孤独にさせてなるものか」

このように強く思うものです。

“生きていれば、生きてさえいれば、なんとかなる

この、根拠のない希望的観測は、人間の本能と言っていいでしょう。

なぜそのような本能がプログラムされているのだと思いますか?

それは、生きることは変化することであり、変化することは可能性そのものだからです。つまり、生はいつだって可能性とともにあります。

後書き

私は遠藤周作※(ブログ下記に説明)のファンなのですが、著書にある『愛とは見棄てないことだ』『神とは働きだ』というメッセージが心に強く残っています。

居るとか在るとか、そういう存在そのものではなく、至る所に働く作用。それが神だと書いています。

この働きは、幸福な時よりも辛苦の時にこそ働くようです。

遠藤周作は、幼少期を満州で過ごしました。

そこで両親が離婚し、1933年に母と帰国。

自分の意志ではなく母親の希望でキリスト教徒となり、うちなる葛藤と向き合い続けました。

純文学作家ですから大変重いテーマを扱う一方、別の名前でふざけた面白い著書もあります。

まだスピリチュアルという言葉がなかった当時、死後の世界についても真摯に調べエッセイにしています。偏見や差別がない御方なのでしょう。

重い病気を患い、医療過誤の被害にも遭った経験などから「心あたたかな医療」運動を提唱し活動を続けました。

そんな経歴を持つ遠藤周作は、イエス・キリストに観音様の雰囲気を感じたのかもしれないと思うのです。

信仰と葛藤、人生の深い孤独の底で見た“あるもの”を題材にした名作「沈黙」は映画化もされています。


沈黙 (新潮文庫)


沈黙 -サイレンス-(字幕版)

宇多田ヒカルの「ディープ・リバー」という歌は遠藤周作の「深い河」からの着想です。

フジテレビ専務取締役の遠藤 龍之介氏は遠藤周作の息子。

※仏教哲学について、また遠藤周作さんについて、私感を書いております。どうぞご寛容くださいますと幸いです。

(2017年2月の記事をリライト)