なぜ自殺をしてはならないのか。愛とは何か。~観音様の「観音」という言葉の語源とともに~

なぜ自殺をしてはならないか。

それは、自分が自分を見捨てることは最も「愛」から遠い行為だからです。じゃあ、「愛」って一体なんなんでしょう。そんなものあるのでしょうか?

順を追って書きます。




愛はキラキラしていない

私の夫は楽観視できない病気を持っています。手術しまして、半年ごとに病院で検査をしています。

母は50代で癌を罹患し他界しました。

近親者の死や病気は「愛」を捉え直し、「生」を見つめ直すおおきなきっかけになるものです。

私は長いこと虐待を受けて育ったせいもあるのでしょうが、【愛】というものがキラキラと美しく光る宝石のようなものだとは思っていません。

なぜ自殺してはいけないか?

なぜ自殺をしてはならないか。

それは、自分が自分を見捨てることは最も「愛」から遠い行為だから、と冒頭で書きました。

見棄てるのは自分の「命」に限ったことではありません。魂、精神、霊性ももちろん含まれます。

「自分は生きている価値などないんじゃないか」

そう疑いながら生きる、これは愛です。

自分で自分に呆れていても、それでもどうしても自分を見棄てられない、それが愛です。

これは自己愛であり、人間が生きるための最も根幹的なスキルです。

では、愛について少し説明していきましょう。

1.人は孤独を感じるようにプログラムを組まれている

人は「自分以外の誰かを愛して初めて自分の価値を見い出す」という、他者の存在なしでは自分を本当には慈しむことができない一面があります。

誰かの役に立ちたい
誰かを愛したい

人間は一人で完結しないようにプログラミングされているのです。

一人でも生きていける人は、一切の執着から離れることができた仏陀(お釈迦様)だけです。

2.同じ表現・同じ濃さでの愛のお返しを求めることは恐喝に近い

あなたが誰かを慈しむとき、その誰かがあなたを同じ表現・同じ濃さで慈しむことはないでしょう。

それを望むとしたら、もはや愛ではなく支配欲です。ほとんど恐喝です。

恋人であれ、夫婦であれ、親子であれ、「あれだけ愛したのだから、愛し返してくれ。見返りをよこせ」というわけにはいかないのです。

しかし、

「愛するわが子(恋人/夫妻/親友)に、生きていてほしい。失いたくない」
「愛するわが子(恋人/夫妻/親友)のために、なんとか生きよう。喪失と孤独を体験させたくない」

このように思うのは、自然な感情ですね。

仏教哲学では「執着」と呼ぶ感情なのかもしれません。
スピリチュアルから見ても「独り善がり」であるかもしれません。

しかし、この思いには人間の根源的な希望が込められてるのです。

「生きていれば、きっと幸せがある」

この根拠のない希望的観測はほぼ本能と言っていいでしょう。「生への執着」が全ての始まりなのですから。

3.個(自己愛)と全体(他者への愛)の循環

自己愛は自分を保護したり、自分の存在を許可するために他者から求める愛です。

他者への愛は他者のために自分が差し出す愛です。

あなたは愛を受け入れる人であり、差し出す人でもあるわけです。

直接的ではなく間接的なやりとりでもかまいません。
ささやかで気まぐれな人助けでもかまいません。

それが誰かの人生を救い、世の中のエネルギーを確かに循環させるのです。

エネルギーの循環はすなわち人の可能性です。

だからこそ、この両方のエネルギーが循環している状態を目指すことが愛の目的なのです。

つまり、個と全体(あるいは分離と統合)を循環させる
「うちの子は、そういうことは絶対にしません!」とおっしゃる親御さんがいらっしゃいますが、大人であれ子どもであれ、何事も「絶対に無い」というこ...

4.循環と可能性

エネルギーの循環は可能性を生みます

【今の考えのまま】これから何十年と生きていくことは、あり得ません。それが人の可能性というものだからです。

自殺をしてはいけない理由は、ここにあります。

物事も、状況も、環境も、あなたの価値観も、必ず変化します。あなたは可能性を生むことができるからです。

観音の語源、観音様という存在と役割

純文学作家の遠藤周作※(ブログ下記)は「愛とは見棄てないことだ」と、自著の中で書きました。

「自分の人生を見棄てない」

この言葉に心を寄せたのは、私が虐待などで孤独を味わったからなのだと思います。(プロフィール参照

観音様は、音を観る、と書きます。

は、観察の観ですね。観ること。観察ですから、ぼーっと見ているのではなく、目を大きく見開いて見る状態を指します。

は、人生を生きるなかでの様々な声……嬉しい、愛しい、清々しい、悲しい、虚しい、嫉妬、憎しみ……などの感情や思考、すべての【声】のことを表します。

自分が心から大切に思う人に悲惨な出来事が襲いかかったら、「変わってあげたい」「もう、見ているのも辛い」「自分の無力さが情けない」と思うものです。

愛する人が不慮の事故や難病で病床にいるとき、そばで見守ることしかできない、そのような苦しみを経験したことがある方もいるでしょう。

●どんなに悲惨で辛い事実であっても、目をそむけずに見守る存在
●か細く、今にも消えてしまいそうな声を聞きのがさない存在
●声を上げられずに沈黙の中で苦しむ声をも掬い上げる存在
●ただ無言で寄り添う存在

それが「観音」というものなのではないかと、私は思っています。

遠藤周作は、イエス・キリストにもしかしたら、そんな観音様の雰囲気を感じたのかもしれませんね。


(もし、遠藤周作さんの著書でそのように書かれていたら、私が存じ上げていないだけですのでご容赦ください)

愛とは何なのか?

自分の苦しみも虚無感も、誰も気づいてくれない。

そんな孤独のさなかに、実は【愛】が静かに寄り添っていたとしたら。

それは、観音様なのかもしれないし、イエス様かもしれません。人によってはマリア様であり、故郷の山海の神様であり、あるいは他界した母親かもしれません。

結局のところ、愛とは何か。

登山に似ていて、ヒィヒィぜぇぜぇと山道を登り、ふっと爽やかな風が吹き抜けていくことに気づいた瞬間が愛です。

岩に腰掛け、眼下に広がる景色や雲が地上に落とす影を眺める瞬間が愛です。

愛についてはこちらでも書いています。

今回は、 ●自己愛性パーソナリティ障害(自己愛性人格障害) ●境界性パーソナリティ障害 ●回避性パーソナリティ障害 について...

※遠藤周作

純文学作家であり、かつ、ユーモアある大衆作家の顔も持つ。今で言うスピリチュアルにも関心を持ち、生まれ変わりなどについても執筆。

重い病気を患い、医療過誤の被害にも遭った経験などから「心あたたかな医療」運動を提唱し活動。

幼少期に母親の希望でキリスト教徒となり、うちなる葛藤と向き合い続けました。

信仰と葛藤、人生の深い孤独の底で見た“あるもの”を題材にした名作「沈黙」は映画化もされています。


沈黙 (新潮文庫)


沈黙 -サイレンス-(字幕版)

宇多田ヒカルの「ディープ・リバー」という歌は遠藤周作の深い河から着想。

フジテレビ専務取締役の遠藤 龍之介氏は遠藤周作の息子である。

※仏教哲学について、また遠藤周作さんについて、私感を書いております。どうぞご寛容くださいますと幸いです。

(2017年2月の記事をリライト)

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