「頑張らなくても良い」という言葉について─Only the wearer knows where the shoe pinches.─

「大丈夫だよ」
「頑張らなくても良い」
「やりたいことだけやれば良い」

私にはこれらの言葉は途方もなく陳腐で薄っぺらいように感じられることがあるんですよね。
いえ、言葉そのものではなく、相手の状況や苦しみを知りもしない人が気軽に「大丈夫」と発言することに対して薄っぺらさを感じるんです。

私の夫が酷いパワハラとモラハラで会社に行けなくなったとき、「辞めていいよ、大丈夫」と言ったことがありました。努めて明るく言いましたが、陰でこっそり覚悟をしました。

(大丈夫じゃないかもしれない。その時は私が頑張らなきゃ……でも、私にも持病があるのになんとかなるだろうか…えぇい、今はとにかく夫だ)と。

でね、思うんですよ。

母にはなんと声をかけたら良かったのだろうか?と。

一人ぼっちで、二人の幼児を育てなければならなかったあの頃の母に。

骨折したのに病院を抜け出してきた母

私が4歳か5歳くらいのころのことだったと思います。母が大型トラックに轢き逃げされ、足を骨折しました。

救急車搬送されたものの、隙を見て病院を抜け出しタクシーで帰って来たのは、幼児二人(私と弟)の世話のために止むを得ず、でした。

私の父は猛毒親(暴力、経済DV、不倫)、母は完膚なきまでワンオペのため誰にも頼る人がいませんでした。

母が病院から抜け出してこなかったら、私と弟は二人きりで空腹のままずーーーっと母を待ち続けていたでしょう。

結局、母は高熱を出し(骨折しているから当然)、翌朝すぐに病院へ。病院から抜け出すことはできなくなりました。

母、母の友人、親戚、私の友人……と、どういうわけか私の周囲には苦労人が多く、「大丈夫じゃない状況を、子どものために根性と気迫で乗り越えてきた人たち」が身近にいます。

私自身、被虐待児としてサバイバーでした。

頑張らないと生きてこられませんでした。

だから、

「大丈夫だよ」
「頑張らなくても良い」
「やりたいことだけやれば良い」

という言葉を他人に発したい人には困惑してしまいます。

だって、ぼっこぼこに殴られている私を見た人が「大丈夫だよ」と言ってきたら、「何が?どのへんが?」という反応しかできません。大丈夫じゃないので助けてください、という状況なのですから…

Only the wearer knows where the shoe pinches.

その靴のどこか痛むのか、その靴を履いて歩いている人にしかわかりません。

Walk in someone’s boots. (shoes)

その人の立場にならないとわからないんですよね。

その状況を知りもしない人が、「大丈夫、大丈夫」と言うのはやっぱりだめなんです。

無理して頑張っているのは、前提に無理があるから…

私が、30年以上前の母に会ったらこんなふうに声をかけたい。

あのね、
お父さん、変わらなかった。
お母さんが他界した後も……変わらなかったよ。
お母さんが、お父さんと仲の良い夫婦を目指していたのは痛いほど知ってる。
お父さんが昔のお父さんに戻るんじゃないか?って待っていたんだよね。
でもね…
お母さんの愛情をきちんと受け取ってくれる人を、愛してほしかった。

切ないですけど……。

母はどうするのが最善だったのかなぁ。

帰れる実家もない、頼れる人も居ない、お金もない、コネもない、身動きの取れないなかで。

福利厚生のしっかりした会社で働くのが理想だったと思うけど、当時は「女は専業主婦であるべき。まぁ、せいぜいパート」の時代。それに、母にはいろいろなハードルがあったのも知ってる。

虐待やモラハラ夫という環境の人は「マイナスをゼロにする」のが本当に大変。

母の場合、本当はシェルターや保護施設を探すことも必要だったと思うけど、当時、そんなところあったのかな…

でも…

なにより、母に一番必要だったのは、「夫は私を愛しているのではない。夫は夫自身のことしか愛していない」という部分を受け入れることだったんだろうと思う。

きついね、あまりにもきつい。

「受け入れがたい苦いことを受け入れる」、これって父の実家にも通ずるテーマなんだよなぁ…

頑張る「方向」を変えられるのは、現状を受け入れられたから

私が実家から出たあの日、「我慢して実家に住み続けることを放棄」したわけです。

父から逃れることはできましたが、また別の我慢や頑張りが発生しました。

家賃や生活費を100%自力で稼がなきゃならないからです。

ということは、頑張る場所、頑張る種類、頑張る方向性が変わったということです。

例えば、どんなに好きなことを仕事にしても、業務のなかに必ず嫌な作業はあります。何をしても我慢や頑張りはついて回ります。

ただ、その我慢や頑張りに無理があったり、自己犠牲があったりしてはいけないんです。

無理は続きません。

でもね。

ここ、すごく難しいところなんですよ。

どういうことかと言うと、私の夫は「俺は、無理はしねぇ」と言っていた時期がありました。

その分、全部、私に被さってきたんです。

「じゃあ、私も無理しない」と言ってしまったら、子どもの世話は誰がするのでしょう?

誰が家を清潔に保つのでしょうか?

足りない家計は誰が補填するのでしょうか?

誰もいません。

だから私がやったんです。

疲弊しきったある日、「あっ!これ、義父と義母の関係だ!」と気づきました。

夫はふんぞり返っていて、妻は仕事も家事も育児も介護も背負いこむ……この構図、絶対にだめです。

夫には、『あなたの“無理はしねぇ”は、私の犠牲のうえに成り立っているの。あなたが仕事から帰ってきたあとや休みの日にふんぞり返っていないで、多少は無理してもらわないとこの家は破滅する』と伝えました。

この時、私は頑張る方向を変えたのですよね。

「私が病気で満足に動けない以上、目の前にいるもうひとりの親を育てあげるべきだ。だってこの人、父親なんだから」という方向へ。

いえ、たとえ私が健康で元気でも、やはり夫にも頑張ってもらわなければなりません。

なので、夫が仕事の愚痴をこぼしたときに、「その、サボってばっかりであなたに仕事を押し付けてくる先輩ってさ、私にとってのあなただよ」とズバリと伝えました。

これは効果がありました。

長いあいだ悩んで苦しんで、とうとう頑張る方向を変えようと決心した当時の私に、今の夫を見せてあげたい!

そして、本当の「大丈夫」を伝えたい。

「大丈夫。あなたのその決断は正しい。あの日、実家を出た決断のように。

頑張らなきゃならないことはたくさんあるけど、夫の料理は上手になっているし、週に1回は洗濯物を干すようになったし、週に2回はお風呂を洗うようになったし、言われなくても段ボールを捨てるようになったよ!しかも、スーパーの特売日まで把握している!」

長い道のりだった~