「人の役に立ちたい」という感情は本当に難しいなぁ……。と思うことがあります。例え、その動機が善意であっても、「自己愛と承認欲求にいざなう甘い蜜」になり得るからです。
誰かを助けたい・救いたいと強く思うとき、「本当に救われたいのは自分だったな……」と気づいた経験はありませんか?
誰かを助けたいという感情が、自分の飢えから来ていたり、満たされない自己を埋めるためだったら……
悩みがないのはお釈迦様だけ
突然ですが、仏陀(ブッダ)はサンスクリットで「悟った者」という意味ですから、悩みがないのはお釈迦様だけ、と言ってもいいでしょう。
心理学を学ぶためにアメリカへ留学していた方と話す機会があったのですが、海外では、カウンセラーにカウンセラーがいるのは当たり前なのだそうです。
カウンセラーという言葉を、教師やセラピスト、占い師などに置き換えてもしっくり来るシステムだと思います。
つまり、ブッダ以外の人はすべてカウンセラーなどに頼っていいのです。
「同じように悩む方の役に立ちたい」の心理は難しい
私は機能不全家庭(虐待など)で育ちインナーチャイルドの苦しみを味わいました。
インナーチャイルドインナーチャイルドあるいはアダルトチルドレンと言われる言葉ですが、「子ども時代に子どもらしくふるまう」
「yes,noを明言してもよい」
などの権利を、乳幼児から青年期のあいだに著しく傷つけられた経験があることを、私はインナーチャイルドと言っています。
私がインナーチャイルドと表現するときは
「傷害を負わされた自尊心」
「自分を大切にする権利・他者から尊重される権利を著しく傷つけられた経験」を指しています。
主には虐待や、親が何らかの問題を抱えて親としての役割や振る舞いを果たせていない家庭です。
気づきと癒しの過程をブログに書くことで、同じ悩みを抱える方との交流が生まれたことは、長く辛い道のりの大きな励みになりました。
書籍やホームページ、ブログなどを参考にしながら、特に情報交換が可能なインターネット(ブログ)にはおおいに助けられました。
ところが、読んでいるうちにある種の違和感を覚えるブログの存在に気づいたのです。
インナーチャイルドやアダルトチルドレンの癒しを謳っているセラピストさんのブログに、「もしかして、この方はまだ苦しみの最中(さなか)にいるのではないかな?」と感じるものがありました。
人はみな誰しも完全ではなく、むしろ不完全だからこそ共感し、分かち合い、励まし合えます。
ただ、癒えていない傷がまだ痛むのに誰かを助けようとするのはリスクがあります。
私の夫が人命救助の講習会に参加した際に言われたそうなのですが、「まず、救助現場の安全確認」
確かにそうなのです。
「同じように悩む方の役に立ちたい」という気持ちがあっても、情緒不安定だったり、相手に共感しすぎて辛くなったり、あるいは承認欲求や自己顕示欲が色濃く漂っていると感じたら、自分のことをケアするのが先だよ、という合図なのです。
誰かを助けることで自分の価値が見出せる?
「人の役に立ちたい」「誰かを救いたい」そういう気持ちの根底に、「誰かを助けることで自分の価値が見出せる」という考えや感情がある場合。気をつけたいのは以下のことです。
✅共依存の関係を生み出す(自分が光でありたいために影の存在を作り上げる)
✅他者から認められることでしか自分を確認できない
✅独善的、全能感
○○な女になる!ポジティブを引き寄せる!……辛くないですか?に書いたのですが、
●子どもがアイドルやヒーローになりたがるのに似て、インフルエンサーや救世主願望(メサイアコンプレックス※)がある
承認欲求や自己顕示欲は起爆剤や点火・着火として活用することに留意し、自分の渇きや飢えを満たすことを【目的】にしないように意識することが大切なのではないでしょうか。
他者に対して批判的になりすぎる時も、親切になりすぎる時も、根っこにあるものは同じものです。
誰かを助けたい・救いたいと思うとき、本当に助けられたい・救われたいのは自分自身なのかもしれませんね。
メサイアコンプレックスとは
メサイアコンプレックス※について、BLOGOSというサイトの「メサイアコンプレックスにご用心」ページが解りやすいので引用させていただきます。
メサイアコンプレックスという言葉を知っていますか。メサイアはメシアともいいます。救世主のことです。「自分が世界を救うんだ」という誇大妄想的な心の状態を示します。これが転じて、人助けをすることで自己有用感を満たそうとする心理状態もメサイアコンプレックスといわれます。
また、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』メサイアコンプレックスも参考になります。
【おすすめの参考書籍】
↑この本を一番読み込みました。ワークについても書いてあります。
本来はグループで行うのが良いようですが、私は一人で行いました。
↑自分がされたことにわざと鈍感になり、傷に触れないようにすることは「自衛」のひとつだと思います。もし、一歩進もうと思う時が訪れたら読んでみてください。
また、自分の何気ない言動が「実はこれもモラハラだ」という気づきも得られました。